ソフトテニスの歴史
●初期の軟式ボールはドイツ製
 硬式テニス(ローンテニス)が生まれたのが、1800年代の後半になります。場所はもちろんイギリス。上流階級のスポーツでした。日本に渡ってきたのが、明治になってからです。その当時は、円の価値が紙屑みたいな時代だったので、硬式のテニスのボールを買うのが大変だったと言うことです。無くしたり、消耗する度にアメリカかイギリスから輸入しなければならず、その費用を出せるのは、ほんの上流階級の人だったのみということです。1884年頃そこで日本体育会の父、坪井玄道という人が考え出したのが、ドイツ製の輸入品のゴムボールでテニスをするということだったということです。これは硬式のボールに比べ1/6の値段で割と自由に手にはいったということです。
●広めたのは教師
 東京で体育を主に専門に行う東京高等師範学校(後の筑波大)で、ゴムボールテニスが流行り、ちりじりになった教師が各学校で広めていったということです。そして1890年に坪井先生が、日本の業者にゴムボールを作らせることにしました。
●アウトもつなぐ試合の形式
 この頃から流行はじめたソフトテニスですが、最初は後衛の平行陣のかたちでした。ラリーに重きがおかれ、ボールがつなげる楽しみのためにソフトテニスを行っていたようです。試合の勝敗がさほど重要視されていなかったようです。ですので、ラリーが100球も続くということがあったそうです。アウトもノーバウンドでさわりつなぐことも良くあったということです。
●平行陣から雁行陣へ
 これより10年たった頃、ボレーやスマッシュをする選手が現れ始めます。東京高商の金原選手の前衛プレーで注目を浴び、前衛の元祖と呼ばれています。試合も勝敗を重視する形式に変化していきます。学校間の対抗戦もさかんに行われるようになりました。
●日本最初のメダリストは軟式テニス出身。
 今はソフトテニスとなった、この軟式庭球ですが、オリンピックで硬式テニスで銀メダルをとっています。1920年の第7回のオリンピックでのことです。初出場の日本の選手が大活躍したのです。なんと熊谷選手は、シングルス戦で決勝まで進みました。ダブルスでも銀メダルをとりました。
●なぜ勝てた、軟式プレーヤー
 この当時のヨーロッパの選手は、ドライブボールというものをほとんど使いませんでした。軟式選手のウエスタングリップから繰り出す、ドライブボールに外国の選手はだいぶとまどったということです。フォアからは強烈なドライブボール、バックはワングリップでくり出すドライブのかかったボールだったそうです。サービス&ボレーが定着しつつあった硬式テニスに対して日本の選手はいわゆる中ロブで返球をし、選手の頭をロブで越していったのです。さらにコートを広く使う、展開プレーをたくさん使ったということです。
  
 日本で最初にテニスが行われたのは明治の初め頃といわれています。外国の公使館員や、宣教師などによるもので1868年とも、1870年とも言われています。当時の話によると「明治初年、東京の築地に外国の居留地が出来た時分、そこに住んでいる外国人が時々亀の子ざる(亀のような格好をしたざる)のようなもので球を打ち合って面白そうに遊んでいるのを見た」というのがあります。
 また、1873〜74年頃に、海外遊学の日本人達がこれを持ち帰って試みたという話や、安部磯雄が岡山へ初めて伝道師として赴任したさいに、自ら試みて人に教えたとか、生糸の商人が習ってこれを甲府で試みたとかいわれています。


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